また何かそして別の聴くもの

だらだら坂から - 日々のヴァラエティ・ブック

水曜の朝、午前3時

もう随分と長い間、理髪店の店主を待っていた。ようやく自家用車で現れた店主が店のシャッターを開けたので、待ち侘びた私は店主の背中を追うように店の中へと続いた。私に気付き、振り返りざまに「体調が悪いのでやっぱり帰ります」と店主。恰幅の良い体型、眼鏡の奥の鋭い目線に気後れしたのか「そうなんですね」としか返せない私。すぐに店主は車で走り去ってしまった。どれだけ待ったと思っているのだ。ひとり店にとり残された私は、いらいらしながらも何故か、トイレでも借りてやろうと店内を見渡しだす。ところが、トイレなどどこにも見当たらない。いらいらは収まりが効かず、目の前にあった業務用らしき椅子を力の限りに蹴り上げる。椅子の脚がポキリと折れた。

・・・そこで目が覚めた。夢だった。いやな夢。でも夢でよかった。出てきた理髪店店主は実在の人物だった。大昔に通っていた散髪屋さん。忘れていた顔がこんな夢で蘇るなんて。記憶というものは本当に面白い。

夢に出てきたトイレのくだりは、尿意からの誘導に違いない。現実の私はよろよろとトイレに向かった。

夜中に目覚めても時計を見ない

 快眠の法則として、Webサイト等でよく見かける啓蒙だ。時計を見てしまうと、脳の仕組みで体内時間が記憶され、次の日もまた、起きる準備が行われてしまうのだという。わかってはいても毎夜見てしまう。そして今夜も時計を見てしまったのだった。

午前3時。また3時だ。またしても3時にタイマーをセットしてしまった。

かつてポール・サイモンが書いた歌「水曜の朝、午前3時」に、罪を犯し、苦悩する男が描かれている。

I've committed a crime, I've broken the law 

 歌の中で男は、犯してしまった罪が夢であれば、と願うのだが、どうやらこちらは夢では無さそうだ。

公園に行かないか?火曜日に

コロナ禍がやってきて、我が職場でもランチタイムは大きく様変わりした。外食はもちろん自粛。職員食堂では私語厳禁、皆が一方向を向いて座り、黙々と食べるのみである。まるで誰もが囚われの身であるかのようだ。

かつてのランチタイムは、職場近くの小さな公園に行き、ベンチに座って、サンドウィッチなどの軽食と煙草を一服するのが常だった。公園といっても、小さな遊具がひとつ置いてあるだけの、遊ぶ子供たちもいない寂れた公園である。── なんと灰皿は公的に設置されていた ──

そんな昼休み、いつもその公園で一緒だった同僚の男女二人がいた。彼、彼女は煙草を吸わなかったので、今思うと何だかそこだけ気の毒になる。とにかく、仕事上の愚痴を笑いを交え披露し合う、といったどこででも見かけるひとときであった。

それにしても煙草には後悔しかない。止めたのは去年の3月。体調を崩したことを期に、即禁煙を決意した。よく止めましたねーと周りから口々に笑われたが、医師から脅されたこともあり、なんとも呆気ない幕切れだった。ラッキーだったと思う。

ほら チャイムを鳴らし 背中をたたき もうすぐランチタイムが終わる

そう、あっという間にランチタイムは終わり、三人は重い腰を上げ職域に戻る。

たった1時間とはいえ、暑い夏も、寒い冬も、あの公園のベンチで過ごした日々は確かにあった。当たり前にあった日常も、いまとなっては映画の回想シーンのように美化されてしまう。

そして、世の中がパンデミック色に変色し始め、今日からあの公園には行けないな、という「今日」が必ず存在したはずなのだが、それがいつだったのかも思い出せない。

こんなささやかな習慣でさえ、あの憎き疫病は変えてしまったのである。もしも世の中が変わり、以前と同じ日常がまた戻っても、昼休みにあの公園に行くことはもうない気がする。

待ち合わせたレストランは もうつぶれてなかった

あっという間に飲食業界も厳しくなり、出不精な私の行動範囲でも、知らぬ間に畳んでしまったお店がいくつか。先日、神戸元町を歩いていたら、むかし通っていたBARが違う名前になっていて、思わず声をあげてしまった。

都築響一『Neverland Diner──二度と行けないあの店で』

内容説明

僕をつくったあの店は、もうない――。

子供の頃、親に連れられて行ったレストラン、デートで行った喫茶店、仲間と入り浸った居酒屋……。誰にも必ず一つはある思い出の飲食店と、舌に残る味の記憶。

 都築響一氏の著書は、正直「TOKYO STYLE」しか所有していないのだが、コレは読んでみたい。

月曜日の床

ゆらゆらと気味の悪い浮遊感を全身に感じ、目を覚ますとやはり地震だった。岐阜県で震度4だという。関西は震度2。この震度でもハッとなって目が覚めてしまう。この条件反射は、今なお体幹に宿る阪神大震災の恐怖なのだと、あらためて感じる。あの震災を経験していない娘も、部屋から慌てて出たようだ。連休明けの、こんな目覚めだけは勘弁してほしい。

雨は上がっていたが、床の湿気をまだ足裏に感じる。部屋の湿度計の目盛りは、色分けされた快適ゾーンを大きく超えていた。

この度の大雨は、大量の水蒸気が帯状に流れ込む「大気の川」と呼ばれる現象が原因なんだとか。昨日の午後から関西は晴れ間もあったのだが、洗濯物がまったく乾かなかった。

パンデミック。自然災害。地球はこの先、どうなってしまうのだろう。誰もがそう嘆息をもらす。私も同じだ。しかし今朝も通勤準備に急かされ、その杞憂は5分ほどで休止してしまった。アタマの中が、乾燥剤買うのを忘れるな、に塗り替えられたのだった。

昨日購入した本。藤本和子「ブルースだってただの唄」(ちくま文庫)、「作家たちのオリンピック 五輪小説傑作選」(PHP文芸文庫)、宮沢章夫「考えない人」(新潮文庫)、穂村弘「本当はちがうんだ日記」(集英社文庫)、「輝きの一瞬 短くて心に残る30編」(講談社文庫)。全て110円、セールで2割引。

最近また、60年代の邦画が気になりだした。市川崑監督、加賀まりこ主演のホワイト・ライオンCM動画を、先日Twitterで見かけたのがきっかけ。超カッコいい。

忘れてしまった頃に思い出すよ、と曽我部恵一も歌う。

ステイ・ホームという無理強い、実はコレ、自分にとってそれほど過酷な要求ではない、ということに最近気付いた。心の底から気分が晴れたわけではないけれど。

www.nicovideo.jp

まるで僕らはエイリアンズ

今朝、フジテレビのトーク番組「ボクらの時代」に稲川淳二さんが出ていた。所謂「怪談」の語り手需要は、令和になっても安定しているのだろうか。子供たちがまだ小さい頃、「ほんとにあった怖い話」とか「耳袋」とかを、家族でワーキャー叫びながら楽しんだものだが、子供の成長とともに全く観なくなってしまった。
そもそもホラーや悪霊ものなどより、じぶんはもっと日常にフォーカスした、ヘンテコな恐怖話が好きなのであった。
穂村弘氏の「愛の暴走族」というエッセイ。仲間から不思議な思い出が次々と語られ、結果的にそれらは、恋愛相手の嫉妬がもたらした意思表示だったのでは、と一応のオチはツクのだが、震撼するのがその手段だ。

私もいつだったか、部屋のなかにシャボン玉が浮いてたことがある。読んでた本から目を上げたら、いくつもふわふわ浮いてたの。あとから考えると、たぶんドアの郵便受けから吹き込んだんじゃないか、と思うんだけど。最初は子供の悪戯かなと思って。でも、どうも別れた恋人だったみたい。仲良かった頃、一度だけいっしょにシャボン玉したんだよね。ラフォーレんとこの歩道橋の上で。(愛の暴走族 / 穂村弘)

独りくつろいでいる部屋に、もしもゆっくりとシャボン玉が流れ飛んできたとしたら。
怪談の季節である。
の書き出しで始まる、安田謙一さんのエッセイ「なんでわかった?」も大好きだ。そして怖い。

確か「笑っていいとも」で、(たぶん)森脇健児が体験談(!)として語っていたのだが、ある日、森脇が街を歩いていたときのこと、前から来る男がどうも、なんだか、なんとなくおかしい。どこがおかしいと明確に判断させる根拠はないのだが、その男はなんかヘンだと森脇に違和感を抱かせるのである。そして、その男はすれ違いざま、「なんでわかった?」と言い残して消えた。 (安田謙一 / ピントがぼける音(P.29))

語り手、森脇健児氏(笑)。この絶妙なキャスティングが素晴らしい。なによりこの話をフックアップした安謙さんが素晴らしい。
この男の正体が、幽霊なのか、エイリアンなのか、最後までわからないのがよい。なのに、確かに漂う変な感じ。ああ、やっぱり怖い。語り手が森脇健児という役者不足を補ってあまりある、いい怪談だと思う。

きみの町じゃもう雨は小降りになる。

雨音に気づいて遅く起きた朝。いやそんな優しい雨ではなく、土砂降り。災害リスクも高まっているらしい。また気象情報のシグナル。とんだ三連休のはじまりだ。あれだけピーカンの夏空を嘆いていたのが嘘のよう。

近所のSUBWAYのサンドウィッチを娘に頼まれテイクアウトする。彼女はチリチキン、私はウワサの腸活サンド。

Dandelionて、タンポポのことなんです、ふうに言うと、SUBWAYて、潜水艦のことなんです。潜水艦型のサンドウィッチ。

地下鉄じゃなかったんだ。

恥ずかしながらも今日知りました。サブウェイ・パニック。「SUBMARINE SANDWICH」の「SUB」と、オーダーはあなたの好みで ー「YOUR WAY」ー を合わせた造語だったのですね。

腸活サンド│サブウェイのキャンペーン情報│サブウェイ公式サイト

さささと買い物を済ませ、ステイ・ホームをめざす。この雨だからか、ショッピング・モールは人も車も多し。

どしゃぶりの雨の中、傘もささず(させず)に自転車で駆ける少女を二人も見かけた。心の中のアッコさんがざわつき出す。はっ。

新潮2021年9月号の新連作、川上弘美「あなたたちはわたしたちを夢みる」を読む。屋根打つ雨音が読書への集中を終始阻んだ。

午後、妻と(元)お隣さんを駅まで迎えに行く。お引っ越しされるまで、二家族の子供たちは本当に兄弟のように育った。互いの部屋を行き来出来る梯子を架ける計画が持ち上がったほどだ。もちろん、その計画は叶わなかった。

お隣さんの子供たちは三人兄弟。長男、長女、次男。時は流れ、三人はそれぞれ遠い町で暮らしている。

ときどき、人はいなくなる。いた人が、いなくなり、あったものが、なくなる。

(川上弘美 / あなたたちはわたしたちを夢みる) 

バナナブレッドのプディング

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ここ関西にも、災害級の大雨というニュースが届いていたが、いまのところ大丈夫そう。ひどくなるのは明日か。とにかく神戸三宮はすごい人混み。

宇宙人ジョーンズなら、まさか今、地球がパンデミックの最中とは気付くまい。マスクはちょっと風変わりな民族衣装といったところだろう。

「俺たちゃ最大10連休」プラカードを掲げていそうな輩が、幸せそうに地下街を次々と闊歩していく。もしもそうならば、10連休はやはり羨ましい。

とあるお店の前まで来たら、やはり張り紙が貼ってあり休業だった。またか。Google情報をあてにしたじぶんが悪かった。

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上島珈琲で休憩。アイス・コーヒー。Joe Hendersonの「Recorda Me」がかかり、わあっとなる。アルバム・ジャケットもカッコよすぎる「PAGE ONE」からの一曲。しかし隣席のご婦人二人連れのお上品なお喋りにすっかり掻き消され、消沈した。その会話は例の疫病のことばかり。

神戸阪急のルビアン・ルミレーヌのバナナ・ブレッドやピザ、玄米パンなどを買う。

続いて「さんちか」のスイーツブロック、7番街の神戸フランツで「神戸魔法の壷プリン」も買う。そりゃ太るはず。たとえ魔法の壺でもダイエットには効果なし。

かくしてぼくのスイーツ日記は更新される。

ブックオフが本全品20%OFFのセール中。文庫を3冊購入。すべて110円20%オフ。すべて失踪本の買い直し。欲しかった赤塚隆二「清張鉄道1万3500キロ」(文芸春秋)、松永良平「ぼくの平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック」(晶文社)を見つけたがスルー。「ぼくの平成~」はキョンキョンのオビが無かった。

それにしても街歩く人たちは皆明るく幸せそうだ。「あと3日も休みやで」プラカードの連中が、森谷商店のコロッケや、御座候や、蓬莱や、ピロシキ屋の行列を延ばしている。このご時世にも許される、ほんのささやかな贅沢へと行列は延び続ける。

電車の中では引き続き、村上龍のアンソロジー「魔法の水」収録、椎名誠「箱の中」を読む。SFから私小説までオールマイティなこの有名著者の作品を、じぶんは全く知らない。今更ながら勉強しよう。

魔法の壺に魔法の水。世界はいま、愛よりも魔法を求めている。

Close Your Eyes

結局今年もお盆帰省の自粛が呼びかけられている。でもどうなんだろう、昨年よりきっと人は動くはず。じぶん一人だけでも父の墓参りに、と考えてはみたが、田舎は色々喧しいのだった。実家区域の情報をぎりぎりまで収集してから決めようと思う。

先日購入した、村上龍編「魔法の水」というアンソロジーに、吉本ばなな「らせん」が収録されていた。オリジナルは『とかげ』という短編集に収録されている不思議な小品。懐かしい。確か文庫で所有していたはず、と頁を開くと殆ど記憶に残っていなかった。

ありきたりの男女が過ごす、夕刻から夜までの短い物語。男女でもそうでなくても、ひと同士の距離というのは目の前のテーブル一卓分では決して無い。ばななさんにしか書けぬ、その距離感の抽象化が圧巻なのである。

 たとえば君が目を閉じたとき、まさにその瞬間に宇宙の中心が君に集中する。

 すると君の姿は無限に小さくなり、後ろに無限の風景が見えはじめる。君を中心にして、それはものすごい加速でどんどん広がる。私の過去のすべて、私の生まれる前のこと、書いたことのすべて、今まで私が見てきたすべての眺め、星座、遠くに青い地球の見える暗黒の宇宙空間まで。

● 

叔父と母と弟と娘、そして私の五人が実家のテーブルを囲んでいる。

「さあ目ぇつむって、イチゴ、ブルーハワイ、メロン。これは?」

順番に目を閉じ、かき氷のシロップの味を当てるゲームが始まる。そして誰も正解に至らずひたすら笑い転げている。これは2017年に帰省したときのお盆の記憶。

それにしても誰がこんなことをやろうと言い出したのだろう。それをどうしても思い出せない。誰かよくあるTVの科学番組でも観たのか。かき氷のシロップの味は実は全て同じで、色で味を錯覚するってやつ。

やがて娘が、私の母が目を瞑っていることをいいことに、鼻にシロップをくっつける悪戯を始める。孫が何をしようと決して怒らないお婆ちゃん、けけらけけらと笑う。

この瞬間が永遠に続けばいいと願ったひと夏だった。薄ら寒い表現だが、ひとりこっそりそう願った。

すごいすごいと私は内心狂喜し、
そして君が目をあけたとたんにそれはすべて消えてしまう。 (吉本ばなな / らせん)

詰まる所、瞬間が永遠になどなり得ない。熱はすぐに冷まされる。なにより、じぶんの故郷への答えはもっと複雑に捻れている。愛おしい記憶と忘れたい記憶の交錯。このアンビバレントな感情は死ぬまで続くのだろう。
今日のおやつは、セブンイレブン「もちっとわらび餅とろーり黒蜜入り」。結構なリピーター。とろーりというほどとろーりしていないがウマウマウー。